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  • Shino Nishikawa

軍神

戦友【軍神】 ① 仲五郎(東郷平八郎) 馬に乗り、信長様の敵討ちに向かう豊臣秀吉がいた。 月夜に、仲五郎は目を覚ます。真っ黒な家の囲炉裏のそばで、家族で雑魚寝している。 でも、薩摩の9月の夜は、それほど寒くはなかった。 美しい月を見るため、窓のそばに行くと、母親が声をかけた。 「仲五郎、寝なさい。」 「うん。」 仲五郎の胸は苦しかった。真っ黒な床に敷いた布団に戻り、隣に歩いてきた虫をつぶし、口にいれた。 「僕は豊臣秀吉でした。」 仲五郎がつぶやくと、 「何言ってるだ。」 父親が言った。 「これは本当なんです。お父さんとお母さんには、分からないかもしれませんけど。」 「うん、それはいいから、もう寝なさい。」 母親が言った。 仲五郎は、美しい茶室と、寝室と、豪華な着物を思い出して、涙をこぼした。 お父さんは、金持ちの家来をしている。 みすぼらしい青い着物を着た仲五郎は、父親と手をつないで、田んぼ近くの道を歩いた。 「仲五郎は、農家になるのはどうだ?」 絶望的に感じた仲五郎は、口を閉ざした。 「何がやってみたい?」 「うーん、馬に乗ってみたい。」 「ああ、そうか。でも、家に馬はない。だから、今度、島津さんの家に行って、乗せてもらうのはどうだ?」 「うん‥。」 「自分が豊臣秀吉だったという話は、他の人にしちゃダメだぞ。みんな、変だと思うからな。」 「分かりました。でも、お父さんは信じてくれますか?」 「まぁ~‥信じるとまではいかないけど、嘘ではないと思っている。」 父親は笑った。 ② 無人(乃木希典) 1849年12月25日、乃木希典は現在の東京六本木に生まれた。 でも、その頃の東京は、今とは全く違う場所だった。 希典の幼名は無人である。上に兄が2人いたが、2人とも亡くなっていた。 無人には、兄達のように夭折することなく、壮健に成長してほしいという願いが込められている。 父親の希次は、江戸詰の藩士だったため、無人は10才までの間、長府藩屋敷において生活した。この屋敷は、赤穗浪士の武林隆重ら10名が切腹するまでの間、預けられた場所であったので、無人も赤穗浪士に親しみながら成長した。 無人はよく泣く子供だった。それは、大人になってからも治らず、スピーチの際には、必ず涙ぐんだ。 ③ 仲五郎(東郷平八郎) 元服し、平八郎と名乗るようになった仲五郎は、1862年14才の時、初めて出陣した。 その後、戊辰戦争では、春日丸に乗り込み、新潟・箱館まで転戦して、阿波沖海戦や、箱館戦争、宮古湾海戦で戦った。(この頃の10代というのは、特別なので、プラス10才して考えてもらいたい。) 20才くらい(現27才)の平八郎は黙っている時は、とても良い男で、芸者たちを虜にしたが、一度口を開くとおしゃべりが止まらなくなった。酒は好きだったが、酒を口にすると、どんどん毒が入るように、悪い話をしてしまった。 悪い言葉を言ってしまって芸者を泣かせた時に、今までの戦いで人を殺した時に、悪い呪いにかかったのかなとも思ったりした。 「どうしよう、やめようかな。」 平八郎は涙が出てしまって、料亭の廊下で赤い顔で自分を恥ずかしく思った。 「おそらく、悪い呪いにかかってしまったのだろう‥。」 平八郎は、壁に手をつき、つぶやいた。 見えない声が聞こえた。 『仕方ないさ。嫌でも、お前は軍人として、人生を生きるしかない。』 「もう嫌だ、やめたい。」 別の見えない声が聞こえる。今度は女みたいだ。 『確か‥こう言ってなかったかしら?僕は‥豊臣秀吉だって。』  見た事もない可愛らしい女は、平八郎に笑い、消えた。 「へ?」 平八郎は少し元気になった。 ④ 無人(乃木希典) 無人は元服し、名前は源三にした。1864年、少年時代から通っていた集道場の仲間たちと、盟約状を交わして、長府藩報国隊を組織した。 1865年、第二次長州征討が開始されると、萩から長府へ呼び戻された。 源三は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉戦争に加わった。奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの成功を挙げた。 しかし、勉強が好きな源三は、軍にとどまることなく、明倫館文学寮に復学した。 ⑤ 渋沢栄一 1840年2月13日、埼玉県に生まれた渋沢栄一の幼名は、栄二郎である。 1861年に江戸に出て、海保漁村の門下生となり、北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門する。 23才の頃に尊王攘夷の思想に目覚め、幕府を倒すという計画を立てるが、尾高長七郎の説得を受け、中止する。 父親から勘当を受けた体裁を取って京都にでるが、八月十八日の政変直後だったため、勤皇派が没落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣、平岡円四郎の推挙により、一橋慶喜に仕える事となる。 慶喜が将軍となった事に伴い、栄一は幕臣となり、パリ万博を視察する。 ⑥ 板垣退助 1837年5月21日、土佐藩上士、乾正成の嫡男として、高知城下中島町に生まれた。 乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である。坂本龍馬とは親戚である。 「うわあああーー!!!!」 少年時代の退助はわんぱくそのものだった。 1856年8月8日、高知城下の四ヶ村の禁足を命ぜられ、神田村に蟄居し、身分の上下を問わず庶民と交わる機会を得る。一時は家督相続すら危ぶまれたが、父、正成の死後、家禄を220石に減ぜられて、家督相続を許された。 1861年10月25日、江戸留守居役兼軍備御用を命ぜられ、11月21日に江戸に向かう。 1862年6月、小笠原唯八とともに、佐々木高行に会い、勤皇に尽くすことを誓う。 10月17日、山内容堂の御前において、寺村道成と時勢について対論に及び、尊王攘夷を唱える。 1863年1月4日、高輪の薩摩藩邸で、大久保一蔵(利通)と会う。 1月11日、容堂に随行して上洛のため品川を出帆するが、悪天候により、下田港に漂着する。1月15日、容堂の本陣に勝麟太郎(海舟)を招聘し、坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議し、4月12日に土佐に帰った。 退助は、土佐藩の上士としては珍しく、武力倒幕を一貫して主張していた。 1867年の5月には上洛し、中岡慎太郎の手紙を受けて、5月18日に、京都の料亭「近安楼」で、福岡藤次、船越洋之助らとともに、中岡と会見し、武力倒幕を議した。 さらに、5月21日、中岡の仲介によって、京都の小松清廉邸で、毛利恭助と西郷吉之助(隆盛)と、武力倒幕を議し、退助は、「戦となれば、藩論の如何にかかわらず、必ず土佐藩兵を率いて、薩摩藩に合流する。」と決意を語り、薩土密約を結ぶ。 6月2日に土佐に帰り、藩の大監察に復職し、7月22日には軍制改革を指令する。 8月20日、土佐藩よりアメリカ合衆国派遣の内命を受けるが、のちに中止した。 9月6日、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助らを釈放する。 これに応じ、七軍勤王党幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決議する。 10月、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移す。 ⑦ 大隈重信 1838年3月11日、佐賀藩上士の家に生まれる。幼名は八太郎。 重信は7才で藩校弘道館に入学し、『朱子学』中心の儒教教育を受けるが、これに反発し、1854年に同志とともに藩校の改革を訴え、1855年には退学となる。 このこと、枝吉神陽から国学を学び、枝吉が結成した勤皇派の「義祭同盟」に、副島種臣、江藤新平らと参加した。 1856年、枝吉の推挙で、佐賀藩蘭学寮に転じた。 1867年、尊王派と活動していた重信は、副島とともに、徳川慶喜に会った。 庶民じみた重信に、慶喜は心を許し、本当の笑顔を向けた。 「それで‥。」 重信が切り出すと、慶喜は少し目を丸くした。 「はい?」 「慶喜様は、江戸幕府をどうお考えになっておられますか?これからも続けるべきかどうか。」 「ええと‥。それはやめさせないといけないと考えております。」 「そうですか。では、いつ頃までに‥。」 ザザ‥。ふすまの向こうで聞き耳を立てていた幕臣が立ちあがった。 「慶喜様。」 ふすまの向こうより、幕臣が声をかけ、慶喜は立ち上がった。 「もうしばらくです。」『10月』 慶喜は聞こえない声をくれ、重信はうなずいた。 その後、重信は捕縛のうえ、佐賀に送還され、1カ月の謹慎処分を受けた。 ⑧ 大政奉還 栄一がヨーロッパ周遊中の1867年10月14日、大政奉還が起こる。 10月19日にマルセイユから帰国の途につき、12月16日に横浜港に帰国した。 帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会した。 栄一は、ヨーロッパ周遊中、ひしひしと思い出していた徳川家への恨みをかみしめていたが、一目慶喜を見ると、ヨーロッパでの土産話が止まらなくなってしまった。 まるで、慶喜は懐かしいお父さんのような感じだった。 慶喜は、栄一に静岡藩より出仕することを命じるつもりだった事を話すと、栄一は下を向き、それを素直に受け入れようと思った。 でも、慶喜は続きを言った。 「これからはお前の道を行きなさい。」 1868年1月27日から1869年6月27日まで、戊辰戦争が勃発する。 「日本の統一をめぐる個別領有権の連合方式と、その否定および天皇への統合を必然化する方式との戦争」旧幕府軍と新政府軍が交戦した。 新政府軍の指揮官に、西郷隆盛、板垣退助、大村益次郎がつき、新政府軍が勝利した。 1868年3月に五箇条の御誓文が出され、4月には江戸城無血開城が行われた。 勝海舟は、慶喜に自決を諭すつもりでいた。しかし、慶喜を目の前にすると、開いた口がふさがらなかった。徳川慶喜は強そうな良い男だった。西郷隆盛はずっと前から慶喜を知っていたので、『わしが身代わりになるわい。』とも言った。しかし実際には、お金をわたして似ている男を用意するつもりだった。2人は冷や汗をかき、思った。徳川慶喜さんを殺すわけにはいかない。 戊辰戦争で新政府軍の指揮官に西郷隆盛、旧幕府軍の指導者に徳川慶喜がついていた。戊辰戦争でのトップ同士が、江戸城で向き合い、無血開城が行われたのである。 西郷隆盛の最終階級は陸軍大将である。それは元帥を意味している。 ⑨ 東郷平八郎の留学 美男子の平八郎は、イギリスへの官費留学の話を耳にする。 「留学をさせてください。」 平八郎は、大久保利通に頼み込んだが、良い返事をもらえなかった。 大久保利通は目をそらし、「わしにはまだ分からん。」と言った。 利通には、平八郎はただの男にすぎなかった。 戦争にうずもれ、死にゆく男だ。そんなただの人を、イギリスに行かせるわけにはいかなかった。 「なぜ、平八郎はダメなんですか?」 平八郎を見込んでいる役人が、利通にたずねると、利通は眉間にしわをよせ、言葉を考えた。 「うーん‥。平八郎はおしゃべりだからダメだ。」 それを伝え聞いた平八郎は寡黙に努めた。 平八郎は、泣く泣く西郷隆盛に、イギリス留学を頼み込んだ。 そして、西郷隆盛から大久保利通に手紙を書いてもらい、平八郎はイギリス留学することとなる。1871年からの11年の留学中に、平八郎は、国際法について学んだ。 ⑩ 御堀耕助と源三の昇格 源三の従兄に、御堀耕助という男がいた。 源三よりも立ち回りの良い男で、慶喜に対するあこがれを抱きながらも、倒幕派にいた。 1867年8月、西郷隆盛や大久保利通らと、倒幕の実施計画について会談をした。 倒幕についての考えを問われた耕助は、作り笑顔で言った。 「いや、幕府なんてダメですよぉ‥。慶喜なんて男には、日本を任せられません。」 源三は作り笑いで目じりを下げた。本当は、慶喜に対する憧れがあった。 もしもお仕えできれば、幸いだった。 隆盛と利通は、偽笑いの耕助を熱心に見つめた。 『我らは必ず歴史に名を残す。我らの中で、一番偉いのは‥。』 隆盛と利通は、顔を見合わせた。 『この男は、何番手なのだろう‥。』 『でも、悪い男ではない。普通とまではいかないが、平凡な男である。』 1869年、耕助は、藩命により、山縣有朋や西郷従道と共に、欧州視察に向かうが、香港まで行って、病気のためにいったん帰国した。同年11月、モンブラン伯爵らと横浜を発ち、パリで山縣有朋たちと合流した。 帰国後、薩摩で病気の治療を受けていたが、病状が悪化して、三田尻に帰った。 源三が耕助の見舞いに来た。 「お兄さん、具合いかがですか?」 「うーん。今は悪くない。ところで、お前の方はどうだ?」 「報国隊の漢学助教になったんです。」 「そうか。軍人の道をやめ、学者になるということか?」 「軍の仕事も好きですけれど、知識のない軍人は、ただ鬼畜と同じでしょう。」 源三が言うと、耕助は笑った。 「そうだな。でも、軍人の道に進むのなら、源三に、黒田さんを紹介できるぞ。」 源三は、黒田清隆と対面した。 そして、12月には藩命により、伏見御親兵兵営に入営して、フランス式訓練法を学んだ。 1870年2月4日、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍連兵教官として、馬廻格100石を給された。 それでも、落ち着かない日々が続いた。役職や格上げの話合いが、上の人たちの間で行われていたのだ。 しかし、「源三が少佐になる。」と前の週には知らされた。 「よし!」「よし!」 源三は、ガッツポーズをして、何度も喜びをかみしめ、鏡の前で敬礼をしてみたりした。 1872年1月3日、黒田清隆の推挙を受けて、大日本帝国陸軍の少佐に、源三は任命された。 22才の源三が少佐に任じられたのは異例の大抜擢だった。 源三はまだ見ぬ未来の栄光の舞台で、インタビューを受けた。 フラッシュがまぶしい。 「今日という日は、生涯何より愉快な日です。」 「これから、どんな事を頑張りたいですか?」 「まずは、少佐として‥。」 源三は頑張りたい事を言った。 源三は正七位に叙され、名を希典と改める。 ⑪ 東郷平八郎のイギリス生活 イギリスに留学した平八郎は、ダートマスの王立海軍兵学校を希望したが、イギリス側の事情で許されず、ゴスポートにある海軍予備校バーニーズアカデミーで学び、その後、商船学校のウースター協会で学んでいた。 最初は、気軽に英語で話していた平八郎だったが、だんだん英語が分からなくなる。 「To go, China」 金髪の奴らにからかわれて、平八郎は学校の廊下で立ち止まり、赤い顔で涙をぬぐった。 夜、平八郎は誰もいない部屋で言った。 「ねぇ、僕にも、英語を話させてよ。」 「ダメよ。日本にいる男たちは、英語なんて話せないの。」 「どうしてだよ!僕はイギリスにいるんだぞ。英語ができなきゃ、何も分からないじゃないか。」 「英語の魔法は少しだけあげる。でも‥それ以上は‥。」 「なんだい。僕は嫉妬にあたっているってことかよ。」 「そう。その通りよ。平八郎には幸せになってもらいたいけど、私はみんなのための神様なの。」 「へぇ、わかった。じゃあ、もう向こうに行ってくれ!」 「Goodbye。」 「グッバイ。」 「僕にも英語を分からせてよ!!」 平八郎はまた、大声で叫んでしまった。 『静かに。みんな寝ているのだから。』 「だけど‥、みんなが話している事が、全然わからないんだ。昔みたいに、おしゃべりをしてみたいのに。」 『おしゃべりをするかわりに、口笛を吹いていなさい。』 平八郎は昔のように、楽しくおしゃべりをする自分を想像した。 それを消すように、平八郎は口笛を吹いてみた。 すると、口で吹いていると思えないような音色が、口から流れ出した。 「英語の代わりにくれるのは、これかよ。」 平八郎は布団を頭までかぶった。 そして、もう一度口笛を吹くと、安心した気分になった。 これで、イギリス人と仲良くできるかもしれない。 次の日もその次の日も、口笛を披露することはなかったが、平八郎は元気になった。 でも、また、英語が出来ない事に悲しくなる日がきた。 夢の中で、誰もいない廊下に向かって、叫ぶ。 「僕にも、英語を分からせてくれよ!!」 『平八郎、その部屋に行ってみなさい。』 平八郎は部屋に入ると、自分の名札が置いてあった。ここは、軍人としての自分だけの部屋みたいだ。引き出しを開けると、重くて小さなピストルが入っていた。 護身用としてのものだが、万が一の時、自分の頭を撃ちぬくための物だ。 平八郎は目を閉じ、それを閉まった。 平八郎は、その時から、黙る事を覚えた。 ⑫ 栄一、実業界へ 渋沢栄一は、株式会社制度を実践する事や、新政府からの拝借金返済のために、 1869年1月に、静岡で商法会所を設立した。ところが、大隈重信に説得され、10月には大蔵省に入省することとなる。 大蔵官僚として民部省改正掛を率いて、改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。 1872年には紙幣寮の頭に就任した。ドイツで印刷された明治通宝を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなかった。 「失敗したら大問題。」 と、ハナから大隈重信とは対立しがちだった。重信は、栄一にとって、『ちょっとこわいおっさん』だった。時々、『ちょっと嫌なおっさん』に変わったりした。 「お前の希望はなんだ?」 「いや、あなたには分かんないと思うので、いいです。」 そして、逃げる夢を何度も見た。 しかし、予算編成を巡って、大隈重信と大久保利通と対立した時、そんな無礼な態度はとれなかった。 「一体いくら使いたいだ?」 「ええと‥。」 あの時のように、栄一はうなだれた。 そして、重信が慶喜のような言葉をくれるのを待ち、上目で見た。 「まぁ、いい。何やるにせよ、しっかりと国を思い、生きなければいかん。」 栄一は、1873年に井上馨と共に退官した。 その後、実業界に身を置く事となる。 ⑬ 隆盛と利通の最後 1877年9月24日、西郷隆盛が亡くなる日が来る。 西郷隆盛は食料を切らし、腹はペコペコだった。薄暗い中で、袋から食料をあさるように取り出し、食べた時は、若い頃に戻ったかのようだった。 いまだ、自分の中にみすぼらしい少年がいた事を知り、泣きたくなった。 前日に流れた葬送曲が、未だ、城山に小玉していた。 頭を少しおかしくした隆盛は、子分に聞いた。 「利通は来ているか?」 「来てないです。」 「そうかい。」 『死ぬ時の高揚はこんな感じなのだな。』 隆盛は、目を見開いた。目の前がくらくらしている。 政府軍が総攻撃を仕掛けた時、隆盛は、腹と股に被弾した。 急所の付近で、隆盛は目を開き、感覚をなくしたまま、膝をついた。 「西郷どん!」 別府晋介が、隆盛の肩にふれると、すぐにどこに当たったのか分かった。 「大丈夫か?」 「はぁはぁ‥。」 「どうする?」 「首はねてくれ。」 かすかに、隆盛が言った。 「晋どん、俺ら、もうここらでよか。」 「ごめんなったもんし。」 晋介が、隆盛の首をはねると、隆盛の頭はごろりと転がった。 隆盛は目を開き、『こんな事をするなんて信じられない。』という顔だった。 「でも、頼んできたでしょう!!」 晋介は頭まで血を浴び、腰をつき、怖気づいた。 仲間が、隆盛を心配しているうちに、晋介は刀で自決した。 隆盛の死を聞いた栄一は、具合が悪くなった。そして、イラ立つ事が多くなった。 隆盛の死のニュースが出た日でも、自分の前にいる若い連中は、笑い合っている。 『ふざけるなよ。』 「こんな大変な時に、先に逝ってしまうなんて、あいつ多分せこいよな。」 栄一はイラつき、ついに泣き、若者たちに憤慨した。 隆盛は、あの世ではとても暗くなり、怒っていた。 「なんで来なかっただ。」 隆盛は暗い目で、大久保利通を呪った。 『最後は一騎打ちの掟を交わしたのに。』 あの世でも隆盛を慕っていた武士たちが、利通殺害計画を持ち掛ける。 隆盛はその計画書を読むと、雲に乗った小さな天の神様が現れた。 『そんな事を実行すれば、あなたは二度と地上へ戻れなくなりますよ。』 「いいよ。」 「ダメです!!」 天の神様は大きくなり、隆盛の前に立った。 「どうして?俺だけあんなに無様な死に様はないぜよ。」 「それは仕方ありませんよ。」 「仕方なくないぜよ。」 「あなたが愛していた物は何ですか?」 「それは、日本じゃ。」 「あなたが地上に戻れなくなれば、日本は弱くなってしまうでしょう。」 「ふーん。結構。」 結局、殺害事件を決行する事となる。 あの世の布団に寝転がり、隆盛は笑顔で言った。 「俺が一番愛していた物は、利通じゃ。」 利通は、首に刀を刺され、目を開け死んだ。 あの世から、その死にざまを、隆盛は見た。 隆盛の心は凍り、二度と地上に戻れなくなってしまった。 利通は、隆盛と離れ離れになった事を呪った。 利通は生き返ったが、隆盛は生き返らず、2人はまだ会えていない。 「ええ、利通さんまで‥。」 新聞を読んだ栄一は、口をおさえ、息を飲んだ。 ⑭ 希典の結婚 希典も西南戦争で指揮をとっていた。しかし、連隊旗を奪われ、自分もケガをするなど、散々な目に遭った。 特にショックだったのはあの事件だ。 戦いの最中、初老の兵が人質にとられた。普段なら気にとめないが、その時はなんかちがった。希典は涙目で敵を諭し、解放してもらった。しかし、翌日の夕方に初老の兵は死んでしまっていた。 体には踏まれた後もあった。希典は遺体のそばで涙をぬぐった。 そして、本気で自殺を考え、死のうとしたが、仲間に止められた。 その後、舞踏会で、希典は娘を紹介されたが、嫌いなタイプだった。 以前から目を合わせていた、藩医の娘お七を嫁にとる事にした。 ようやく自分も結婚が決まり、落ち着けると思った。 希典は煙草を吸い、空を見た。 「お前、お七を一生大切にできるのかい。」 神様の声が響いた。 「はい。できますとも。俺はお七さんのクソだって、食べれますよ。」 ピカッ。希典が言うと、遠くで小さな雷が光った。 「今のはダメだったか。」 希典は頭を抱えた。 別の日、夜空を見上げて、希典は昇進について願い事をしていた。 すると、大きな龍が来た。 「お前、結婚するんだってな。」 「はい。とても良い娘でして‥、僕らきっと、幸せになります。」 「そうか。その娘が年をとってからも、ずっと大事にしろよ。」 「分かりました!」 希典はお七と結婚をし、お七は静に名前を改名した。 2人で散歩中、希典は可愛らしい子猫を見た。 希典は静に言った。上空には、美しい曇り空が広がっている。 「静、あの雲、なんだと思う?」 「ええ。ただの曇り空だと思いますけど。」 「ちがう。ああいう雲は、天使を連れてくるのさ。」 希典は言い、笑った。 1978年、イギリスに留学していた平八郎は、帰国することになった。 帰国途中、西郷隆盛が自害したと知った平八郎は、 「もし私が、日本に残っていたら、西郷さんの下に馳せ参じていただろう。」 と言い、船の上で手を合わせた。 平八郎の実兄である小倉壮九郎も、城山攻防戦の際に亡くなっていた。 ⑮ 敵多き男、大隈重信 大隈重信と大久保利通は、とても気が合っていた。最初の頃は、重信にとって利通は、隆盛という仲間のいる恐い男だった。もしかしたら、江戸という首都が、薩摩に持って行かれるかもしれないと思うほどだった。 隆盛はいかめしい男で、神々しいといわんばかりの権力を誇っていた。 「こちらからしてみれば、お前さんの方がいかめしいんだぞ。」 夢の中で、隆盛から顔をのぞきこまれたことがある。 大蔵省の実力者としても、利通と隆盛には、気を使う必要があった。 官営の模範製糸工場、富岡製糸場、鉄道・電信の建設などの事業を重信が進めた時、民力休養を考えていた利通は、重信を嫌うようになった。 1870年に利通が、大蔵・民部の分離を行うよう運動を始めた時、重信はすぐに立ち上がり、利通に頭を下げた。 「大久保殿、申し訳ございません。許してください。」 「はぁ‥。」 利通は、重信の誠意ある態度に納得したようだった。 重信は、木戸孝允や岩倉具視とも対立するようになる。 重信は大蔵大輔に任じられていたが、免ぜられてしまう。 しかし、重信にとっての転機が訪れる。 重信にとって敵だった、孝允、具視、利通が、岩倉使節団として、アメリカに行くことになったのだ。 重信は、隆盛の信任を得て、大蔵省の実権を手にした。 内心、岩倉使節団のメンバーで、いなくなってほしくない男がいないほどであった。 しかし、戻ってくることになる。 その日、重信は朝から胃が重かった。でも、隆盛はちがっていた。 利通を見て、隆盛は笑って言った。 「おお、薩摩の浦島太郎さんよ、ようやく戻ったのかい。」 「そんな言い方ないじゃないか。」 「土産買ってきてくれた?」 「おう、あるよ。」 利通は、心がすっきりしたかのようだった。重信は利通と協力し合うようになる。 利通、重信、隆盛は3人で笑い合っていた。しかし、暗雲が立ち込めるようになる。 島津久光が、重信の免職を要求したのだ。重信は、病気を理由に辞表を提出したが、辞職はさせられなかった。 重信を嫌っていた木戸が復帰してくる。重信は、病気が悪化したとして出仕せず、三条、具視、利通は、重信の大蔵卿からの解任を検討したものの、後任候補がいなかったため、続投させた。 しかし、孝允と板垣退助が、重信の辞任を要求し、利通が重信を庇護する形となった。 久光と退助が辞職し、孝允の病気が悪化した事で、重信への攻撃は消滅した。 利通が暗殺されると、政府の主導権は伊藤に写った。 重信は言った。 「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう。」 1880年、重信は、後輩である佐野を大蔵卿とし、財政の影響力を保とうとしたが、重信が提案した外債募集案を佐野が反対し、重信による財政掌握は終焉を迎えた。 また、重信は、伊藤、井上からも冷眼視されるようになる。 しかし、1881年1月には、熱海の温泉宿で、伊藤、井上、黒田清隆とともに、立憲体制について話し合った。 しかし、伊藤との仲は再び悪くなる。 10月11日には、払い下げの中止と、1890年の国会開設、重信の罷免が奏上され、裁可された。これは、同日中に、伊藤と西郷従道によって伝えられ、重信も受諾した。 野に下った重信は、犬養毅らと協力し、1882年3月に立憲改進党を結成し、党首となった。 また10月21日には、早稲田大学を開設した。 ⑯ 明治六年政変 1869年、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信とともに参与に就任する。1870年に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発令した。1871年に参議になる。 1868年頃の西郷隆盛は体調を崩し、外出や閣議出席も控えていた。李氏朝鮮問題は、1868年に李朝が維新政府の国書受取を拒絶したことが発端だが、この国書受取と朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。 そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、隆盛と退助、副島らは、調査のために1872年8月15日に、池上四郎、武市正幹、中平を、清国、ロシア、朝鮮探偵として満州に派遣し、27日には北村、河村、別府を花房外務大丞随員として釜山に派遣した。それは実際には、変装しての探偵活動だった。 1873年の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記・森山茂が釜山から帰国後、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔、上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。 この議案は6月12日から閣議により審議された。 板垣退助は、居留民保護を理由に派兵し、その上で使節を派遣することを主張したが、隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。 すると、太政大臣三条実美が、『丸腰では危険であり、兵を同行するべきだ』としたので、隆盛は拒絶した。 議会で立ちすくむ隆盛から三条は目をそらし、決定は清に出張中の副島の帰国を待ってから行う事を告げた。 「お願い致します。わしを満州に行かせてください。」 7月末より隆盛は涙目で三条に遣使を要求したが、三条は冷たい目で隆盛を見た。 「どうせ殺されるのがオチだぞ。」 「わしなら、いつ死んでもかまわねぇです。」 「命を粗末に考えないでもらいたいね。例え、自分だけの命だったとしてもだ!!」 三条は隆盛を指さしながら、強い口調で怒鳴った。 【朝鮮が使者を暴殺するに違いないから、そうなれば天下の人は朝鮮を『討つべきの罪』を知ることができ、いよいよ戦いに持ち込むことができる】 8月17日の退助宛の書簡で、隆盛はこう述べている。 どうしても自分が遣使として行きたいことと、隆盛が相手に合わせて意見を巧妙に変化させていることが分かる。 そして8月17日の閣議で隆盛の遣使は決定されたが、詳細については決まっていなかった。 三条は、箱根で療養中の明治天皇の元を訪れ、決定を奉上したが、「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき。」という回答がくだされた。 内藤一成は、明治天皇はまだ二十歳そこそこであり、三条の意見をなぞったものに過ぎないと見ている。 9月13日、岩倉使節団が帰国した。 利通を見て、隆盛は笑って言った。 「おお、薩摩の浦島太郎さんよ、ようやく戻ったのかい。」 「そんな言い方ないじゃないか。」 「土産買ってきてくれた?」 「おう、あるよ。」 利通は、心がすっきりしたかのようだった。 少し休んだ利通と隆盛は、他のメンバーと共に談笑した。あんなに嫌だった岩倉も、こちらを見て微笑んでいる。 利通と2人きりになった時、隆盛は利通を覗き込んで言った。 「三条のおっさん、おいらを満州に行かせてくれないんだぜ。」 「どうゆうこと?」 「利ちゃんはいいだろ?長くエメリカに行ってきたのに。」 「いいや、別に楽しいんじゃなかったよ。」 利通は鼻をかき言った。隆盛は正直言って、今にも涙がこぼれそうだった。 「ふーん、隆ちゃんが行きたいなら、満州に行かせてもらえば?」 「そうだな。もう一度、頼んでみる。」 次の日、使節団がいない間に、留守政府がどういう改革を行ったのかを、退助がすまし顔で説明して、隆盛がアシスタントで言葉を交わした。 学制改革、徴兵令の布告、地租改正、身分制度改革、近代的司法改革などである。 『ええ、そんなに?』 利通は隣にいる岩倉と木戸を見た。岩倉も木戸も目を丸くしている。 『利ちゃんがそっちを選んじゃったんだから。』 隆盛を祈るような気持ちで利通を見た。利通は鋭い目を隆盛を見たが、隆盛の目を見ると、すぐに視線を下に降ろした。 『許せない。』 利通は口元を少し動かした。 「どうしただ?」 隆盛が聞くと、利通はうなだれて、口をおさえて、下を見た。 「どうしたじゃないだろう?なんだよ、これは。」 岩倉が言った。 利通は隆盛の手前、ふくれてみようと思った。隆盛も利通と仲良くしたいと思った。 しかし、2人は神様の糸に動かされてしまう。 2人は仲たがいしてしまった。 「みんな驚いた顔してたね。」 退助は隆盛に言った。退助はいつでも元気である。留守内閣時代、隆盛は退助に腕を組まれた事もあったし、退助が名前にTを持つ者が多いと言った事もある。よく夢の話もされた。清で中華まんを食べたというホラ話である。 利通は人が変わってしまった。利通は妖艶なオーケストラの音色に包まれ、隆盛と対決する意向を決め、子供達に遺書を書いた。一方で、隆盛は遣使の決定が変更されるなら自殺するという書簡を三条に提出した。 10月14日、岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張した。板垣、江藤、後藤、副島らは遣使の延期については同意していたものの、西郷は即時遣使を主張した。このため15日の閣議では、板垣、江藤、後藤、副島らは西郷を支持し、西郷の即時遣使を要求した。 決定は太政大臣の三条と右大臣の岩倉に一任されたが、三条はここで西郷の派遣自体は認める決定を行った。しかし、期日等詳細は決まっておらず、単に8月17日の決定を再確認したものにとどまった。 10月17日に岩倉、大久保、木戸が辞表を提出したことで閣議は行われなかった。 三条は大木喬任とともに岩倉邸を訪れて、18日の閣議に出席するように説得したが、岩倉は受け入れず両者は決裂した。夜になって三条は自邸に隆盛を呼び、決定の変更を示唆したが、隆盛はこれに反発した。 翌日、三条は病に倒れた。 10月19日、副島、江藤、後藤、大木の4人で行われた閣議は、岩倉を太政大臣摂行とすることを、徳大寺実則に要望し、明治天皇に奏上された。 10月20日、22日に岩倉が太政大臣摂行に就任し、西郷、板垣、副島、江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にでも遣使を発令するべきであると主張したが、岩倉は自らが太政大臣摂行になっているから、三条の意見でなく自分の意見を奏上するとして引かなかった。 四参議は「致し方なし。」として、退去した。 岩倉は10月23日に参内し、閣議による決定その経緯、さらに自分の意見を述べたうえで、明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上した。岩倉と大久保は目を合わせた。利通は祈るような気持ちだったが、岩倉は昨晩数時間かけて考えた明治天皇への脅しの芝居を決行するか悩んでいて、冷や汗だらけだった。 岩倉は肩で息をした。大久保も顔が真っ赤になった。西郷は遣使反対派をちらりと見て、また前を向いた。利通は隆盛に声をかけようと思ったが、声が出なかった。完全にあちらのゆすりである。あちらというのは、神の国の人の事だ。 「エメリカに行ったのはよくなかったのかな。」 隆盛はふと、そんな事を思ってしまった。 隆盛は潔く辞表を提出し、帰途についた。自分がやらんと決めていた事は、2人がいないうちにやっておいた。隆盛はずっと自分のパートナーは利通だと思い込んでいた。退助という偽パートナーを見た時、イライラした。この男はいつでもパーティー気分である。しかし、こいつとならうまくいった。もしかしたら本物の俺のパートナーがこいつならと想像を始めた時、胃がきりきりと痛んできた。3カ月前にウサギを食べた事が体をもたらせていたと思う。古事記を手にとり、パラパラとめくってみたが、よく理解しなかった。神など不思議なものだ。不思議なものなど、この世で信じなくていい。 隆盛はよく酷い事をした。人を殺めた思い出があるとしたら、瀕死の婆さんが川のそばで寝ていて、息を確認するために口に手をかざし、もしかしたら押さえた時の事だ。でも、あれは夢でいい。隆盛がした酷い事は、動物を殺す事だ。小さい頃からよくやった。優しく話しかけて、首をぽきんと折るだけ。そうやって呪いを集めていた。自分でも知らない間に。 10月24日、岩倉による派遣延期の意見は通った。 退助、江藤、後藤、副島らが辞表を提出し、25日に受理された。 本当は受理されたくはなかった。受理された時、本当にイライラして、涙が出てしまった。 この一連の辞職に同調して、政治家、軍人、官僚600名が次々と辞任した。 事実上の解体である。明治六年政変。 利通は意味が分からなかった。黒い悪魔に取り憑かれたようで、便も奈落の底で固くなっている感じだった。ただ悪魔に突き動かされた。 「国家将来のために悪評をかぶるつもりで実行しました。」 利通はか細く震える声で、部屋で寝間着姿で何度か繰り返した。 「あなた‥。」 障子の向こうに妻がいた。こちらにどうしてもらいたいのかは、知っているつもりだ。こういう事は、確かに嬉しい日もあった。だけどくだらない事だ。翌日に何をしたのか知っているかのような議員に怒鳴られる時は、世間は厳しいと感じる。妻の事も嫌いになる。 でも、そんな時、頼りになったのは、隆ちゃんだった。 「ずっと、我らは友人でしょう?ねぇ、隆ちゃん。」 布団の中で言った。 大隈重信は、西郷が遣使を望んだ事は、征韓論の盛り上がりを見て、朝鮮宮廷で殺害される事を最後の花道として望んだ、自殺願望ではないかと推測している。 1875年9月20日、江華島事件が起こる。 「江華島事件大変だな。」 退助がそう言った時、隆盛は西洋の空気で気分が朦朧としていた。夢を見ていたのかもしれない。一瞬、退助が朝鮮語をしゃべったのかと思った。 『本当はこっちと仲良くしなければならない。』 何度、一人言を言い、顔を手でぬぐったことだろう?よくよく考えてみれば、もしもお隣と仲良くすれば、エメリカという大国が攻めてくるに決まっていた。 「雲揚号事件、大変な事になっちゃったんじゃない?」 退助はキャンディーをなめながら言った。 「こっちには死者がいなかったからよかったんだけど。」 「死者は出ずに?」 「いや、いたけど、一人だけ。」 退助は人差し指を上げた。 ⑰ 板垣退助 下野後、退助は五箇条の御誓文の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、1874年に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと左院に民撰議院設立建白書を提出したが、却下された。また、高知に立志社を設立した。 1875年、大阪会議によって参議に復帰したが、民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、間もなく辞して再び自由民権運動に身を投じた。 1877年、西郷が亡くなったと聞かされた時、退助は股を抑えて座り込んだ。すごく息ぐるしいのが分かった。涙さえ出ない。肌はみるみるうちに白くなった。 息苦しいのは何日か続いた。 『何か甘いの食べれないかな。』 「ちくしょう。」 こういう時にでさえ、食い意地を張る自分が悔しかった。今まで悔しかった事は数えきれない。一番は、戦いの最中に仲間がウサギを食べていて、自分だけが食べそこねた事だ。 1881年、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。 1882年3月10日、板垣退助は東海道演説旅行のために東京を出発した。静岡、浜松を経て、3月29日に名古屋で演説後、4月5日に岐阜の旅館(玉井屋)に到着する。 4月6日午後1時、岐阜県厚見群富茂登村(現岐阜市)の神道中教院にて、板垣、内藤ロイチらが自由党懇親会の演説を行い、午後6時頃演説を終えた。 退助は演説の後はいつも神経が高まるのを感じていた。大きく呼吸をする。 ふいに、隆盛の事を思い出す。 『隆盛殿、文久の時…。』 「おーい、西郷さーん!!」 退助が隆盛に話しかけた時、邪魔が入った。隆盛の足の間にしゃがんで顔と手を出した事はもう覚えにない。もともと自分は幽霊みたいなヤツだ。いや、もとは幽霊だった。戦に出て、死んできたんだし‥。 隆盛は話終わり、こちらを見た。 「あの‥。」 「文久って、八月十八日やろ?」 「はい。その時はどこに?」 「俺は島流しになっていたから、話にしか聞いておらん。あの日の事はな。」 「僕はその場にいたんですよ。」 退助は顔をほころばせた。 「三条のおっさん、力を持ってるね。だからこうなるの。」 隆盛は少し笑った。 「新選組はどうしましょう?」 「あいつらの事は別にいいぜよ。好きにやらせときゃ。」 隆盛は言ったが、黒い瞳の奥はきらりと光っていた。 沖田は上から強1860年。のちに新選組局長となる近藤勇は、松井つねと結婚する。この頃の勇には、新選組の気配すらなかった。 1861年8月27日には、府中六所宮にて、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった。 勇は天然理心流の門人同士で交流を持ち、特に兄の音五郎や惣兵衛、寺尾安次郎、佐藤彦五郎、小島鹿之助、沖田林太郎、粕谷良循らがいる。沖田林太郎は沖田総司の義兄である。 勇は、ツネが待つ家に気まぐれに帰ってきた。 「あなた、外で女の人が待っているの?」 「別に待ってないよ。」 勇はヨウジで歯の掃除をしながら言った。 4日帰らなかったある日、突然勇が帰ってきた。 「おーい、ツネ!いるか!」 「はーい。」 ツネが顔を出すと、男の連れがいた。土方歳三、沖田総司である。佐藤彦五郎は立って、笑っていた。 「俺達はこれから仲間やから。」 「ああ、そうですかぁ‥。」 「そうですかって、お前なんよ!」 勇はツネの頭を軽く叩いた。 1863年正月、江戸幕府は旗本の松平忠敏、出羽国庄内藩出身の清河八郎の献策を容れ、14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。 勇ら試衛館の8人はこれに参加することを決める。 正月16日に勇は小野路村の小島家で鎖帷子を借りている。2月8日、浪士組一行と共に京都に向けて出発した。勇は宿割りを命じられ、本隊より先行して出発した。 「お願い、一晩だけ止めてやってください。」 勇は宿主に困り顔で手をすり合わせた。 「お代は、○○円多く払います。一人‥。あ‥、やっぱり、宿代はそのままで、朝飯ぬきでいいです。」 「朝飯は用意しなくていいだね?」 「はい、構いません。」 2月9日に本庄宿に止宿した際に宿の手配に漏れが生じ、水戸藩の芹沢鴨が激怒して大篝火を焚き、勇と池田が詫びた。 一行が京都に到着した23日夜、清河は新徳寺において浪士組上京の真の目的は朝廷に尊王攘夷の志を建白することであると宣言し、浪士組の江戸帰還を提案し、翌24日に清河は学習院国事参政掛に建白書を提出した。これにより浪士組は清河ら江戸帰還派と勇・芹沢ら京都残留派に分裂し、異議を唱えた勇や芹沢ら24人は京に残留した。 清河八郎という男は、新選組を作る流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。 3月10日、二条城において京都守護職を務める会津藩主・松平容保は幕府老中から京都の治安維持のため浪士を差配することを命じられ、勇・芹沢ら17名の京都残留組は会津藩に嘆願書を提出し、3月12日に受理され会津藩預かりとして将軍在京中の市中警護を担う「壬生浪士組」が結成された。浪士組24名のうち試衛場出身者は勇ら8名を占めている。 結成当初の壬生浪士組は運営がスムーズに行かず、勇は仲間を暗殺したり、切腹させたりした。浪士組は近藤派と芹沢派5名の二派閥体制となった。 3月25日、勇・芹沢ら浪士組が狂言を見物しているのを、遅れてきた土方と沖田が目撃する。揃いの羽織を着ているので、土方が声をかけた。 「なんだよ、それ。俺たちにはねぇの?」 「うーん、まだ。」 勇はニヤニヤと笑い、曖昧な答えをした。 「えーなにそれ。」 土方と沖田は驚いた。仲間外れになったようで、恥ずかしかった。 「近藤天狗になり候。」 4月17日、土方・沖田・井上は、井上松五郎に相談している。 8月18日、長州藩を京都政局から排するために、中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩主導の八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となるが、目立った活躍もなく長州勢の残党狩りに出動する。 その後、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新選組」の隊名を下賜された。勇・土方らはまず、副長の新見錦を自殺させた。 9月13日には勇の意に応じないとして、田中伊織を暗殺した。 9月、芹沢鴨が懸想していた吉田屋の芸妓小寅が肌を許さなかったため、立腹した芹沢が吉田屋に乗り込み、店を破壊すると主人を脅して、小寅と付き添いの芸妓お鹿を呼びつけ罰として2人を断髪させる狼藉を行っている。 朝廷から芹沢の逮捕命令が出たことから、会津藩は芹沢の所置を命じたと言われるが、確証はない。また13日には、芹沢は、土方・沖田らと有栖川宮家を訪れ、壬生浪士の「交名」と警護の用があれば何事に限らず申し付けてくださいと記した書付を渡した。 9月16日あるいは18日、新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。芹沢は平山五郎・平間重助・土方らと早めに角屋を出て、壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓・桔梗屋吉栄、平間の馴染みの糸里が待っていた。 土方歳三が刺客だった。 前日、八木家に訪れた土方は言った。 「吉栄います?」 「は‥?吉栄ならまだ‥。」 「いえ、じゃなくて、明日用意しておいてもらえます?平山さんの馴染みですので。」 「はい。他には‥?」 「糸里ちゃん‥。それから、お梅ちゃん。お願いします。」 土方は、糸里の名を言った後、迷ったようだった。 「土方さん、あなたのお気に入りは誰でしょうか?」 主人は手をすりあわせて聞いた。 「ええと、僕は‥もう、いいですから。」 土方は両手を下で組んで言った。 主人は、歳三が女に体を知られている男だと悟った。その頃の歳三は肌が白く、妖艶な感じで、その点で神に愛されていた。 八木家での宴会が終わるとすっかり泥酔した芹沢らは女たちと同衾した。 糸里は、土方の体に添いなでてみたが、土方は固い表情のまま、頭の下で手を組み、天上を見上げていた。土方は全員を殺すつもりだったが、飲み会の席で、平間や平山、芹沢に良い言葉をかけられ、好きになってしまっていた。糸里は土方の股間に手をかけたが、土方は糸里の手を握り、作り笑いで言った。 「も、もういいから。俺、本当、もう行くね。」 大雨の夜、外で待っている沖田総司、原田左之助、山南敬助の下に走った。 「遅い。」 「すまぬ。あのさ、芸妓は殺さないで。」 左之助が聞いた。 「何、お前だけいい事してたの?」 「ちがうよ!お梅は鴨の相手だからやっていいけど、他の女は殺すな。なぁ、頼む。」 土方は沖田の手を握った。 「はい。御意。」 「そうか。よろしく。」 土方は沖田の顔をのぞきこんだ。 走りながら、土方は念のため、左之助と敬助にも言った。 「女の命は助けてくれよ。お梅以外。な?」 「お梅って誰?」 「わからねーなら、誰も殺さんでいい。女は。」 「はい。」「へーいへい。」 ブッ 左之助は屁をした。 深夜、4人は芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害すると、沖田が芹沢に斬りつけた。 「小寅の仇をとってくれる。」 「ひぃぃ。」 芹沢は息を飲んだが、 「小寅と俺は何もやっとらんぞ!小寅はお前が好きやったから、俺には肌を許さんかった。」 そう言うと、真っ裸のまま、隣の部屋に逃げた。左之助と敬助が追いかけた。 土方は隣の部屋で平間と向き合っていた。 平間は腰巻のまま刀を持ち、歳三と向き合っていた。女2人はすみで震えている。 「よい、逃れよ。」 土方は言った。 「女を連れて、逃れよ。」 「うわあああーー!!!!」 芹沢は逃げ、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机につまずいて転び、そこをよってたかってずたずたに斬りつけられた。 目が斬られるまで、まだ意識があった。 沖田は布団をかぶりぶるぶる震えている梅子を見た。 沖田は布団をとると、梅子は何かを求めるかのように沖田を見た。 『小便しろ。』く、梅子の腹を殴ると、「うっ!」という声を出し、梅子の口からは血が出た。 沖田は梅子を切っている最中、芹沢の犠牲になった小寅について想った。小寅と一緒に過ごした人生で一番やさしい時間を思い出した。 それが、俺なりの、最後の愛し方だったのかもしれない。 土方は、沖田が梅子を殺したのを聞いて、顔をしかめた。 「だって、梅子はいいって言ってたじゃん。」 「まぁ、そうなんだけど、女を殺すなんて、俺にはちょっとできないから。」 「好きな女じゃないなら、俺は殺せる。‥好きな女がいたんだろ?兄さん。」 「ああ‥。そういうわけじゃないよ。」 土方は、糸里にもう一度くらいは会えるだろうと期待していた。でも、沖田に見破られた時、もうダメだと分かった。 八月十八日の政変で、長州藩が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊王攘夷派が勢力挽回を目論んでいたため、京都守護職は新撰組を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせた。 1864年(元治元年)5月下旬頃、新選組は、炭薪商を経営する古高俊太郎の存在を突き止め、捕縛した。 沖田総司は男も相手にしていた。「やーれ、やれ、もっとやれー。」沖田総司は扇子を持ち、踊ったり、舞ったりした。そして、拷問の上に古高を自白させた。 「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜、松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる。」というものだった。 「切り捨て御免!!」 新撰組は簡単に人を斬った。 1864年7月8日(元治元年6月5日)亥の刻、近藤勇率いる部隊は、池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。20数名の尊攘派に対し、当初踏み込んだのは、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で残りは屋外を固めた。 屋内に踏み込んだ沖田は、戦闘中に病に倒れ、戦線から離脱した。また藤堂は血液が目に入り、戦線離脱した。 裏口を守っていた新撰組のところに、土佐藩脱藩、望月亀弥太らが必死で斬りこみ逃亡。 望月は負傷しながらも必死で走り、長州藩邸まで逃延びた。 望月は口から血を流しながら、扉を叩いだ。 「おねげえです、開けてください!!おねげえいたします!!」 しかし、長州藩邸は扉を開けなかった。 門の内側では槍を構え、応戦に備えていた。 「うわああ‥。」 望月は自刀した。 新撰組は一時は近藤、永倉の2人となるが土方歳三の部隊の到着により、戦局は新選組に有利に傾き、方針を、「斬り捨て」から「捕縛」に変更した。9名討ち取り4名捕縛の戦果を挙げた時、会津・桑名藩の応援が到着した。 土方は手柄を横取りさせないように、一歩たりとも近づけさせなかったという。 近藤勇は目を開けたままの死体をちらりと見て、気まずそうに目をふせた。新撰組は、夜のうちに帰ると闇討ちの恐れがあるために夜が明けるまで待機した。 沖田総司は仲間にはさまれて、白い顔でぶるぶる震えている。死体の中には、前に優しくしてくれた大人の男もいたのだ。 近藤勇は腕組みをして、不信そうに沖田を見た。何ももらしていないのを不思議に思った。人殺しをした後は必ずイライラしてしまう。本当は斬り捨てた後、潔く去るのが理想だった。父親もそうしていた。 祖父は首をちょん切られて死んでいる。反逆で処刑されたのだ。昔、酒に酔った父親が赤い顔で話していた。父親は楽しそうに笑っていて、子供ン時の自分はそれがなんだか情けなくて、家の影で泣いた。その時、黒い犬が見ていたような気がする。 新撰組は、死体がゴロがる池田屋で寝た。近藤は横になって眠り、目の前に死体がいる夢を見て、声をあげて目をさますと明け方だった。 辺りは明るかった。沖田たちは座ったまま眠っている。 近藤は10分ほど眠った後、「おい。」と言って、足元に転がる死体を足で小突いた。 仲間の遺体にはしっかりと布がかけられている。 潔く寝ている紳士を、仲間に入れたかった。 仲間が目覚め、おしゃべりを始めた。勇はまだ、狸寝入りをしている。 「いさ。」 仲間の一人が呼び、沖田と土方が睨んだ。 「局長、起きなよ!」 結局、沖田が言った。 「あー、眠れんかった。」 そう言って、勇は体を起こした。 「ぐっすり眠ってたやん。」 2人の仲間が目を丸くして、笑い始めた。 『きもくせぇ。』『小便くせぇ!!』 近藤は声を出さずに言い、口を横に広げて、鬼の目で死体に向かった怒鳴った。 「何?」 仲間が聞いた。 「いや、なんでも。」 「ちょっと小便くら。」 『朝飯どうするかい?』 勇は口をつぐんだ。 「あー、くらくらする。」 空腹で頭と体がからっぽになっていた。 壁に腕をつき、その上に額をのせた。用を足す準備をする。あの場でもらしてもかまわなかった。いや、一度してしまった気がするが、もうその形跡はなかった。 小便の湯気が顔にかかる。 「アー俺ぁ、小便くせぇわ。」 用をすませると、一気に情けなさがこみあげて、赤い顔で泣いた。 そして、涙を拭き、赤い厳しい顔で、仲間の元に戻った。 朝飯はどこで食べたか覚えていない。確か、土方が持っていた甘いヤツだけを口にふくみ、噛み砕いた気がする。アン時ァ、昼過ぎまで何も食べれんかった。 みんな怖がって、作り笑いをしておったわ。そして、店の中に向かい入れた。 誰も毒殺なんて、企んでおらん。 桂小五郎(のちの木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたため、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話しており、難を逃れた。談話中に外の騒ぎで異変に気づいた桂は、現場に駆け付けようとしたが、大島に制止されたため思いとどまった。 新撰組はこの日までにたくさんの仲間を暗殺してきた。後になって、『しまった』と思う事もある。新選組は息一つせず隠れるのがすごくうまかった。それができない男などいらないほどに。そして、背後から襲うのが新撰組の暗殺の手段だった。 一橋慶喜の下に、池田屋事件の連絡が入る少し前から、慶喜は新撰組についてぼんやりと考えていた。 『新選組の組長って、坂本龍馬でしたっけ‥?』 町娘の雪愛は、馬に乗った慶喜を見た瞬間から、運命的な物を感じていた。時々、正室の美賀子になる事がある。雪愛は城を眺め、池田屋事件を起こした新撰組について想った。 『あなたのためよ、ケイキさん。新選組は、あなたのためにそれをやったの。』 「新選組の組長は、坂本龍馬さんでしたっけ?」 「え?」 雪愛は辺りを見回した。慶喜からのメッセージが届いたと分かり、心が温かくなった。 『もう池田屋事件の事を聞いたのかな?』 雪愛は嬉しくなって、駆け出した。 坂本龍馬には前に会った事がある。雪愛が働いているお茶屋に来たのだ。今風の良い感じの男だった。椅子に軽く腰を下ろして、お茶と和菓子を注文し、食べた後に、腕組みをして町を眺めていた。長居してほしかったが、10分ほどで町を出てしまった。 雪愛は夜、「新選組の組長は龍ちゃんじゃないわ。もっと強い男の人よ。」と、いないはずの慶喜相手に一人芝居をした。その時、慶喜は池田屋事件について聞かされていた。 雪愛は楽しい夜を、慶喜は深刻な夜を迎えている。しかし、布団の中では慶喜にも、雪愛のあまえた声が届き、一瞬だけ、優しい気持ちになれる。 翌朝、慶喜は会議をする事になった。美賀子をちらりと見る。美賀子も慶喜がこちらを求めるように見てきたので、驚いてまゆをあげた。慶喜は、美賀子は雪愛が昨日言った言葉をかけるのではないかと心配した。でも、そうやって気分を晴らして、庶民の夫婦を演じられれば面白い。『こんなの贅沢だ。』そう言って、家来が慶喜の着物を蹴るのを見た。 こんな暮らしをしているので、庶民を演じられない。 緊張の瞬間が続いて、汗がにじみ出る。黒ひげだらけの小柄な家来は、口から泡を吹く寸前でかなり動揺しながら、慶喜に話しかけた。 「どういたしましょう、殿。」 『お前、よくそんなんで、この職についておるな。』 でも‥。慶喜はその男が、切腹させられる時の事を想像した。なんとかやってのけられる男であるが、口ひげをそればおしまいだ‥。一度、美賀子が切腹をする時の想像をした。なんとも立派な物で、それで、少し好きになった。 『守りたい。』 黒ひげだらけの男が言った。 「殿、なんとか言ってください。」 「ええと‥。焼き討ちにするか?」 「ええ‥。」 家来がどよめいた。 ガラガラ 「失礼いたしやす。ずいぶん遅れてしまいやした。」 西郷隆盛である。 「西郷さん、今、殿下が焼き討ちと‥。」 家来の一人が隆盛に耳打ちをし、西郷隆盛は慶喜をまっすぐ見た。 「それでようござんす。」 隆盛は言った。 禁門の変は、池田屋事件で襲撃を受けた長州藩と、江戸幕府、新選組の戦いである。 長州藩の指導者の中には、久坂玄瑞(吉田松陰の妹の夫)もいた。 1864年8月20日(元治元年7月19日)の出来事である。 戦闘そのものは一日で終わったものの、長州藩屋敷と中立売御門付近の家屋から火があがった。 もちろん慶喜はその場にはいなかったが、火を放つ現場に、隆盛はいた。 この大火「どんどん焼け」により、京都市街地は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。 有名な寺院では、東本願寺、本能寺、六角堂が焼失している。 京都が焼ける姿を見た隆盛は、煙で大きくむせこみ、手で口を抑えて、涙をながした。憐れな青年だった頃の顔に戻り、悲しい気持ちで炎を見上げた。 女子を炎の中からさらって持ってきたい、ああ、そうやって自由にできたのなら。本能寺が焼けたと聞いて、一度この目で見たかったと思う自分がいて、よけいに涙が出た。 隆盛は死んだ後に天国から一度降ろしてもらって、この世にきた。もう一度あの人に出会えるのかと菩薩に聞いたが、許してはくれなかった。一人でじめじめした山の寺院に来て、祈らねばならなかった。赤い鳥居を見て、祈った時に、あらためて自分の命の意味が分かり泣いた。 『わしは、あの時の事で、許してもらえなかっただねぇ‥。』 『よけいにわしはくだらなく思えてくる‥。』 『神さん、あんたがたの事だよ。』 隆盛は赤い目で神社を指さした。 1867年10月13日、公武合体の考えを捨てた下級公家の岩倉具視らの働きかけにより、倒幕及び会津桑名討伐の密勅が下る。この動きに対し、翌14日、徳川慶喜は大政奉還を上表した。 武力倒幕の大義名分を失った薩摩藩の西郷隆盛は、浪人を使い江戸市内を攪乱させ、旧幕府を挑発することによって、旧幕府側から戦端を開かせようと画策した。 11月15日、坂本龍馬が暗殺される。 12月18日、近藤勇が墨染で御陵衛士の残党に狙撃され、重傷を負う。 12月23日夜、エスカレートしていた薩摩藩の浪人たちの挑発行為で、江戸城二ノ丸が炎上し、遂に堪りかねた旧幕府側は薩摩藩上屋敷の浪人処分を決定し、12月25日に薩摩藩に浪人たちの引き渡しを求めたが、薩摩側が拒絶したため、庄内藩等による江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きる。 この報が、28日に大阪城に移っていた慶喜の下に届くと、「薩摩討つべし。」慶喜は言った。 慶喜は隆盛の事を思い出しては、気味悪がった。 同じく28日、京都にいる西郷隆盛は、退助あてに、「討幕の開戦近し」の伝令を出した。 1868年元日、慶喜は「討薩表」を発し、朝廷への訴えと薩摩勢討滅のため、2日から3日にかけて京都へ向け近代装備を擁する約1万5千の軍勢を進軍させた。 1月3日午前、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触した。 戊辰戦争の初戦となった「鳥羽・伏見の戦い」である。 3日、朝廷では緊急会議が召集された。大久保利通は「旧幕府軍の入京は新政府の崩壊であり、徳川征討の布告と錦旗が必要」と主張したが、春獄は「これは薩摩藩と旧幕府勢力の私闘であり、朝廷は中立を保つべき」と反対を主張。会議は紛糾したが、議定の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。 鳥羽・伏見の戦いの結果は新政府軍の勝利であるが、これは新政府軍が圧倒的な重火器を擁していたことが大きい。 1月7日、朝廷より「徳川慶喜追討」の勅が出され、これに対抗する勢力は「朝敵」であるとの公式な判断が下った。 1月10日、慶喜、松平容保、松平定敬をはじめ幕閣など27人の「朝敵」の官職を剥奪し、京都藩邸を処分するなどの処分を行った。 1月11日、慶喜は品川に到着する。12日、江戸城西の丸に入り、今後の対策を練った。 1月13日、迅衝隊は土佐城下致道館前で出動祈願を行う。その最中も土佐藩門閥派の重鎮・寺村左膳らが「行ってはならぬ」と止めに入るが、それらの制止を振り切って出陣。その直後、「讃岐高松、伊予松山両藩及び天領川之江征討」の勅を拝し「錦の御旗」を授けられた。皇威を畏み、正式に官軍としての命を奉じ、また、いよいよ坂本龍馬、中岡慎太郎らの仇討ちができると喜び勇んで進軍した。迅衝隊が高松、松山に到着すると両藩は朝敵となることを恐れて一戦も交える事なく降伏した為、無血開城となるが、その最中も京都からは佐幕派の土佐藩士らの妨害から進軍を阻止する伝令が出された。しかし情報を得て川路、陸路の食い違いから、阻止派の動向を巧みにかわして京都への上洛をはたす。 山内容堂は当初、鳥羽・伏見の戦いを私闘と見做し土佐藩士の参戦を制止したが、「薩土討幕の密約」に基づいて初戦から参戦した者が数多くおり、追討の勅が下がった後は、もはや勤皇に尽すべしと意を決した。京都で在京の土佐藩士と合流した迅衝隊は、部隊を再編し軍事に精通した乾退助を大隊司令兼総督とした。退助はさらに朝廷より東山道先鋒総督府参謀に任ぜられ、2月14日京都を出発し東山道を進軍した。 この京都を出発した火が乾退助の12代前の先祖とされる、板垣信方の320年目の命日にあたる為、天領である甲府城の掌握目前の美濃で、武運長久を祈念し「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」との岩倉具視等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。 2月28日、近藤勇は幕府から「甲陽鎮撫」を命じられ、幕府から武器弾薬を、幕府や会津藩から資金を与えられると3月、近藤は『大久保剛』の変名を用いて新選組は甲陽鎮撫隊と改名した。また、日野宿では佐藤彦五郎が一行に加わっている。 3月4日花咲宿にて、勇は可愛い娘と出会う。妻ツネの事はいつでも思い出していたが、戦いですさんだ男の心は癒された。娘も勇に声をかけられることを期待したが、板垣退助の率いる迅衝隊が甲府を制圧した連絡が入ってしまった。 近藤はハチマキをつけ、娘をじろりと睨むと、戦いに向かった。隣にいる沖田総司は娘をちらりと見もしない。土方も娘の存在など完全に無視をした感じで、ハチマキを強く巻きなおした。 『下流なのかな‥。』 娘は足元を見た。 「サチ、うちも危ないので、もう逃げますよ。」 母が言った。 「え?」 「うちは新選組を泊めたから、きっと狙われる。」 「ああ、はい。」 サチは素直に寺に逃げた。 3月6日に勃発した甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)で迅衝隊と戦うが破れて敗走する。 勇らは敗走し、3月8日には八王子宿において江戸引き上げ宣言した。この頃、永倉新八、原田左之助らは勢力を結集して会津において再起を図る計画を立て、3月11日には江戸和泉橋医学所において勇と面会するが、勇は永倉・原田らの計画に対して勇の家臣となる条件を提示したため両者は決裂し、永倉・原田は離脱した。勇・土方は会津行きに備えて隊を再編成し、旧幕府歩兵らを五兵衛新田で募集し、隊士は227名に増加した。 勇は変名をさらに『大久保大和』と改めた。 4月には下総国流山市に屯集するが、新政府軍は3月13日にすでに板橋宿に入っていた。 新政府軍は流山に集結した新選組が背後を襲う計画を知る。新選組側に、新政府軍のスパイが混ざっていたのだ。大久保が近藤勇だとバレ、そのため総督府が置かれた板橋宿まで勇は連行されてしまう。 「だからー、ちがうって言っているやろ。」 「うーん。それもちがう。俺はぜんぜん分からない。」 「あのぉ、もうやめてくれませんか?知らないって何度も言っているでしょう。」 バン 「なんなんですか!僕の父は農家でノミを扱っているんですよぉ!!」 勇は幽閉され、連日取り調べが行われたが、勇は大久保の名を貫き通した。 「僕は大久保ですけど、幕府軍の大久保さんとは違う男です。」 「あー。家は京都なんですけど、ドンドン焼きでね、家を失っちゃったんですよ。」 幽閉されている牢屋に、かつての仲間が会いに来る。 「わしちゃん‥。」 「ほらぁ!!やっぱり、近藤勇じゃないかぁ!!」 「きよちゃん。ちがう。俺は本当に近藤勇じゃないんだよ。」 「わからない!!俺たちに向かって威張り腐っていたあの近藤局長だろう!!」 「2人とも、お願い。この事は誰にも言わんといて。」 近藤は手をのばして、仲間の手を握った。 一瞬ひるんだが、2人は大きな声を出した。 「汚らわしい!!」 「二度とさわらないでくれ!!」 その後、土佐藩と薩摩藩との間で、勇の処遇をめぐり対立が生じたが、結局土佐藩が押し切った。 4月25日、処刑当日までの間、勇は妻あてに手紙を書いて過ごしていた。書いた手紙を目の前で、看守がビリビリに破いた事もある。手紙は全て燃やされてしまっている事は、聞こえてくる笑い声で知っていた。 『ツネ、俺の事、最後まで愛してくれるやろう?』 『もちろんよ、あなた。』 勇とツネは心の中でいつでも愛し合った。 「本当に俺にはお前だけなんやから。」 絶対に来ないと恐れていた4月25日の朝が来て、看守は迎えに来た前で、牢屋の中で後ろを向き、いないはずのツネに向かって話しかけた。 「ツネ、本当にお前は最高の女だった。」 「そんなこと言わんといて~。」 勇は口にグーを当てて、空笑いをしてみせた。 「あれぇ、ツネ、お前はこんなに小さかったかのぉ。」 「ほんまに、可愛らしゅう。」 「もう、よいか?」 「え?まだ‥。」 「ならば、よし。」 勇は連行された。 勇は白い服に着替えなければならず、お坊さんのような人が手伝った。 お坊さんは足袋をはかせてくれた。勇は良い気持ちになった。 板橋刑場には、醜い遺体がたくさん置いてある。 『みんな同じよ、局長。みんな同じ。同じ。ね。』 沖田総司の声がする。 『打ち首かぁ~‥。ううう。』 土方歳三が身震いをするのが見える。 『局長、亡くなったら、俺の事を守ってね。』 「最後は勇でいい。」 『勇。死んだ後は、俺たちのことをよろしくね。』 「分かった。」 『今までありがとう。愛してた。』 「ずっと一緒だぞ。」 『うん、永遠にね。』 「最後はやっぱり男かよ。」 「ん?」 勇は執行人の男を昔処刑した仲間に思った。心のどこかでは処刑してあげれば、俺たちのようなヤクザではなく、立派な役人に生まれ変われると思っていた。 しかし、もう一度見上げると、別の男が立っていた。 甲州勝沼の戦い 『近藤の首を見に行くか迷う。』 『これ以上の地獄を見たくない見たくない。』  悪夢を見て、退助は目覚める。 自由。 『殺す?殺されるなら誰に?』

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